電気じかけの予言者

明日のことは明日の僕がなんとかするから

それ全部、相手のためだよね?僕には自分がないのか問題。

スポンサーリンク

若生悠矢@spectiveprophetです。

僕が自分のことを話すと、ほとんどの人がこう言う。

「それ全部、相手のためだよね?」

「悠矢の意思が感じられない」

スポンサーリンク

自分の行動は相手のため?

「それ全部、相手のためだよね?」「悠矢の意思が感じられない」

自分の話し方のせいでそう思わせてしまっているのかもしれないと思っていたのだけど、背景や状況が違っても、言葉を変えようとも、自分がこう思ってこうしたと熱く語っているつもりでも、こう言われ続けている。

会社での人間関係や恋愛、家族との関係、すべてにそうだ。だから本当のところ、言われていることが僕にはよく分からない。分かろうとしているつもりなのだが、そのつもりが本当なのかも分からない。

しかしそんな風に言われるたびに、自分のやっていたことの多くが「後悔」に変わってしまう。自分が犠牲になっていたとまでは思わないけど、犠牲になってるじゃんと言われたこともあるから、そうなんだろう、きっと。

自分のためだったら後悔なんてしない。自分のできることをやりきったって思えるはずだ。たとえ上手くいかなくても、がんばったけどダメだった!、で良いじゃないか。

でも、僕が相手のためにやっていたことだとしたら、やり方の問題になってしまう。やり方を間違えていたのだと分かってしまったら、それはもう後悔にしかならない。

僕は自分の行動理由を相手に押しつけている

この文章もそうだ。自分のことを人に言われたから、という調子になっているのだから、行動も言葉も、どう繕おうとダメなんだ。

こんな書いていてウンザリしてくる自分なんて捨てて変わらないと、そのうちどうにかなってしまう。

本当は自分がどうなりたいのか?

自分の人生を生きるために、自分がどうなりたいか本当は何がやりたいのかを書き出し、そして、それを実現しよう。これまで何かに拘ってきたと思うけど、やり方は1つじゃないということも実感できるはず。

いろいろな本に、こういうことが書いてある。だからなんだっていうのだろう。

外部に答えを求めることをやめる

自分の人生ってなんだろう?人のためでなく、何があるのだろう?

これは僕自身の問題だ。

本や人の言葉といった外部に答えを求めることはやめたい。この問題に人を巻き込むわけにはいかない。

人との関係で解決しようした場合、今の僕ならきっと、巻き込んだ人のためにどうかなろうとしてしまうだろう。本が相手なら、本に書いてあることを行動理由とするに違いない。

自分がひどく弱い人間に思えてくる。これ以上行間を埋めようとすると闇落ちしてしまう。

悩み深みにハマっているところを、ブログに書きつづることでなんとか持ちこたえる。そんなブログは逃げか、守りか、挑戦か。

僕だけのブログだ。誰のためでもない。自分のためだけに書いてやる。

(終わり)

スポンサーリンク