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電気じかけの予言者

きみがここに来ることを、ぼくは知っていた。

自分の居場所と共同体感覚。アドラー心理学『嫌われる勇気』『幸せになる勇気』(岸見一郎・古賀史健)を読む!(第4回)

イチオシ!

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自分の居場所と共同体感覚。アドラー心理学『嫌われる勇気』『幸せになる勇気』(岸見一郎・古賀史健)を読む!(第4回)

若生悠矢@spectiveprophetです。

『嫌われる勇気』と『幸せになる勇気』を読む、第4回。

今日は「居場所」と「共同体感覚」についてです!

<第1回> もうすぐドラマが始まる!アドラー心理学『嫌われる勇気』『幸せになる勇気』(岸見一郎・古賀史健)を読む!(第1回) - 電気じかけの予言者

<第2回> ダンスするように生きよう!アドラー心理学『嫌われる勇気』『幸せになる勇気』(岸見一郎・古賀史健)を読む!(第2回) - 電気じかけの予言者

<第3回> 対等な関係以外は切り捨てよう!アドラー心理学『嫌われる勇気』『幸せになる勇気』(岸見一郎・古賀史健)を読む!(第3回) - 電気じかけの予言者

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自分の居場所は自分で獲得するもの

他者を仲間だと見なし、そこに「自分の居場所がある」と感じられることを、共同体感覚といいます。

世界とは、自分だけでは成立しません。そもそも一人なら世界という概念が必要ありません。

僕は人間関係の一員だから居場所が必要で、自己中心的な「自分には関係ない」という意識さえ取り払えれば、学校でも会社でも家族でも、もしくはコンビニの買いもの客としてでも、いくらでも居場所はあるはずなんですよね。

しかし自分がそこに居たいという居場所は、何もしないで得られるものではありません。 社会への関心を持ち、他者への関心を持つ必要があります。

関心を持つということは、立ち向かうことです。「僕には居場所がある!」というときに、自分から何もせずにその居場所を獲得したという人はいないでしょう。

自分の世界とは「共同体感覚」

自分の人生における主人公は「わたし」である。ここまでの認識に問題はありません。しかし「わたし」は、世界の中心に君臨しているのではない。「わたし」は人生の主人公でありながら、あくまでも共同体の一員であり、全体の一部です。

僕の世界は、僕と相手(人、物、概念)によって形づくられます。

僕は世界の中心なのではなく、世界の中に僕がいる。こう考えると、自分が何をするべきかが明確になっていきます。

それは、相手に何か影響を与えることです。それも自分が選び取ることができる。対等な関係で影響しあえる世界をつくれたら、どんなに人生が楽しいかと思います。

相手に影響を与えて自分の世界をつくる目的は、承認を受け取ることではありません

貢献感を感じることです。

そのためには相手と適切な距離感を保つ必要があります。

適切な距離感とは、相手に何かをするとき自分が何かをしたらといって相手に何かをしてほしいと思わないレベルの距離感で行動すると、ちょうどよく貢献感を感じられるのではないかと考えています。

友達だからしてあげる、夫婦だからしてあげる、ではなく、自分が貢献できる範囲のことをする。自分が無理をしないことで、対等の関係を維持することが大事なのではないでしょうか。

自然との距離感を参考にしてみる

ここであえて、対象を人ではなく木や花といったもので考えてみます。

僕は、自然に存在する木や花のことを基本的には放置しています。でも自分が生きるために大切であることはなんとなく分かっていて、たまに気にする。

ときおり気が向いたときだけエコっぽいことをするし、いくらムシャクシャしてても木や花をワザと踏んだり蹴ったりして傷つけたいとは思いません。

僕は僕は、木は木、僕は木を構うことなく楽しんでいるし、木も僕のことをお構いなしに立っている。木は大切だということを思うことくらいしかできず何もしてやれないけど、酸素を生み出してくれて助かっている。

ただそれだけで存在する理由と価値のある木。人間も同じようなものなのだと思います。

ちょっと無理矢理な感じがするけど、アドラーの言う「共同体感覚」は人間に限ったことではありません。いわば宇宙的な感覚。

僕たちは人間だからしかたないですが、人間のことだけに絞るから難しく感じてしまうと言ってもいい。宇宙的に見れば人間なんて生物の一種ですから、宇宙や地球、人間のなかの自分という視点も持ち合わせていきたいと思います。

(つづく)

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