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電気じかけの予言者

きみがここに来ることを、ぼくは知っていた。

対等な関係以外は切り捨てよう!アドラー心理学『嫌われる勇気』『幸せになる勇気』(岸見一郎・古賀史健)を読む!(第3回)

イチオシ!

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若生悠矢@spectiveprophetです。

『嫌われる勇気』と『幸せになる勇気』を読む、第3回。今回は他人の課題の捉え方と他人とどう付き合うかについてです!

<第1回> blog.spective.xyz

<第2回> blog.spective.xyz

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人はみんな「善」の行いをしている

あなたは人生のどこかの段階で、「不幸であること」を選ばれた。それは、あなたが不幸な境遇に生まれたからでも、不幸な状況に陥ったからでもありません。「不幸であること」がご自身にとっての「善」だと判断した、ということなのです。

端から見るとまるで「悪」の行いであっても、本人にとっては「善」の行いだからこそ実行に移せる。それがたとえ「不幸なこと」であっても、本人にとってはそれが「善」だと判断している。

誰もが自分にとって有益な目的があって行動していて、唯一他人が介入できるとすれば、自分自身に直接的な危害が加わるときだけでしょうか。

「その鉄の棒は置いてくれ!」「たのむから包丁をしまってくれ!」くらいの叫びは聞いてもらいたいですが、よほどのことがないかぎり、僕には相手の行為を受け入れるしかないのです。まあ、「君に殺されるなら本望」という可能性もあるが(ない)。

相手の行為の責任は、その人にしか取れないのだから、他人が口を出すことはできません。

他人の課題に介入しない

あらゆる人間関係のトラブルは、他者の課題に土足で踏み込むことーーあるいは自分の課題に土足で踏み込まれることーーによって引き起こされます。

アドラーは「課題の分離」という言葉で、自分と他人を明確に分けます。それは相手と対等な関係を築くためです。

相手の課題に対して、協力はしても介入はしないこと。そして自分の課題に対しても、他人を介入させないこと。

すると、救う・救われる、助ける・助けられるのような縦の関係ではなくなり、横の対等な関係となることで相手の悩みは解決に向かうと言います。

協力ということを具体的にいえば、同じ視線に立ち共感し勇気づけをするということです。自分を顧みても、これ以上のことをされたくありません。

どう共感すればいいのかという点についても、僕は相手に踏み込みがちで自分を追い込むところがあるので、きちんと学びたいところです。

また、ここでいう勇気とは、相手が自ら今ここを生きる勇気を発揮することです。もし相手に共感できず、自分の力で相手を勇気づけることができない状況であれば、無理をして相手の課題に踏み込まなくていいのです。放っておけばいい。

介入した時点で相手を対等に見ていないということになります。介入して行為や思想を変えようとすれば反発を生みます。

つまり介入しても意味がない。意味がないことをすると自分が傷ついてしまうのです。

自分が傷ついてでも意味がないことでもしたい!というのは、自分に酔って相手に救われたいと思っているから生まれるものです。これが依存の正体でしょう。

以前のエントリー「人の感情に依存しないために - 電気じかけの予言者」で書いたように、僕は余計なお節介で依存関係を築いてしまうところがありました。誰かを救おうと縦の人間関係に自らの意志で突っ込んでいた自分が馬鹿馬鹿しくすら思えてきます。

そのためこの話は耳が痛いですし、他人の課題に対する考え方が180度変わったと思います。実践はこれからですが!

対等な関係以外は切り捨てよう

対等でない人間関係なんて、本来誰の人生にも必要がないものだと思います。これはすべての人と対等になるということではなく、対等になれる人とだけ付き合っていけばいいのです。

ここでも以前書いたエントリー「がんばらない。無理をしない。それだけで悩みの多くは解決するのではないか? - 電気じかけの予言者」を思い出します。

ひと言でいえば、無理をしないということです。

自分だけでも勝手に対等な関係だと思って付き合い、それを拒否する人とは適当に付き合うようにする。

社会の仕組みが縦の人間関係になっているという言い訳をしているうちは、アドラーの言葉でいうと、自分の人生に嘘をついてることになります。嘘をついている自分は苦しいはずです。生きることは苦しいものだ、などと受け入れている自分もまた嘘ではないでしょうか。

今回書いた「相手の課題に介入しない」ことや「対等な関係以外を切り捨てる」ことは、嫌われる可能性を引き受けること、まさに「嫌われる勇気」をもって生きることそのものでしょう。

(つづく)

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